どこかで誰かが

ある日、定食屋さんで一人食事をしながら、
備え付けのテレビで、あるドキュメンタリー番組を見ていました。
今では細かい内容までは覚えていませんが、
人里離れた田舎に引きこもって、ほぼ自給自足という生活の家族(大家族だったかもしれません)の日常生活を追ったドキュメンタリーでした。
番組の内容自体も素晴らしく、いろいろと考えさせられたのですが、
番組の中のある場面を今でも忘れることが出来ません。

その家族の中に、中学生か高校生ぐらいの娘さんが何人かいらっしゃるのですが、
そのように自然と共存する環境で育っているため実にたくましいのです。
自給自足の生活ということは、
米も野菜も家の田畑で採ったもの、
卵は飼っている鶏が産んだ卵を食べます。
自分で作ったものを自分で採って自分で料理して食べるのです。

そんな娘さんたちの生活の中に、
今でも忘れることが出来ない場面があります。

それは、その十代の娘さんたちが、飼っている鶏をしめるシーンです。
食すために飼っている鶏をしめる。よくよく考えてみれば当たり前のことです。
昔は、どの家庭でも日常的に行われていたことで、
鶏を飼っている農家では、今でも普通のこと、当たり前のことです。
私自身も、実際に自分で鶏をしめたことはありませんが、
幼い頃、家で飼っていた鶏が夕食の食卓に並んだ記憶はあります。
生命あるモノを殺し、その生命を頂かなければ人間は生きていけないのです。
それが自然の摂理なのです。

しかし、その時、隣のテーブルから言葉が聞こえました。
定食屋さんのテレビでそのシーンが流れた時、
隣のテーブルにいた若い女性が、一言つぶやいたのです。

「うわ、残酷・・・」

この言葉を聞いた瞬間、強烈な違和感を感じました。
いや、この若い女性に対して何か思ったわけではありません。
なぜなら、この女性が感じたものは、
おそらくこの同じテレビを観ている視聴者の大多数が同じように感じたであろうと思うからです。
そして、もしかしたら、私の心の奥底にも、それに近い感情があったかもしれません。

私が感じた違和感は、
目の前に並んだ料理に対してだったのです。
定食屋さんの各テーブルには、それぞれ美味しそうな料理が並んでいます。
野菜、魚、鶏肉、豚肉、牛肉・・・
どれも私たちが生きていくうえでかかせないものです。
しかし、これらの食材も、元々は全てあの鶏のように生きていたはずなのです。
全てに生命があったはずなのです。

フライドチキンは最初からフライドチキンだったわけではありません。
元々はテレビの向こう側と同じ鶏だったはずだし、
フライドポテトもジャガイモとして土の中で育まれていたはずなのです。
焼き魚も刺身も2~3日前までは海で泳いでいたのかもしれません。

崇高な哲学を語りたいのではありません。
私たちが何か大切なものをスルーしていることに違和感を感じた話なのです。
今の時代、私たちの目の前には、いきなり食材が現れます。
スーパーに行けば、世界各地から届けられた食材がところ狭しと並んでいます。
しかし、どの食材も、元々は生命ある生き物だったわけです。

農家が野菜を育て、畜産農家が牛や豚を育て、漁師が魚を獲り、養鶏農家が鶏を育てています。

私たちの知らないどこかで、
私たちの知らない誰かが、
私たちの知らない生命を育み、
そしてその生命を奪い、食材として私たち消費者に届けてくれるのです。

私たちはスーパーに並んだお肉を見て、美味しそうだなと思うことはあっても、
生きている鶏や豚を見て美味しそうだと思うことはありません。
おそらく、それが現代人の普通の感覚なのですが、
それって、あまりにも色んなものをスルーしすぎているのではないかと思うのです。
そこに強烈な違和感を感じたのです。

そして、あの定食屋での出来事を思い出すたびに、
本当に残酷なのはどっちなんだろう?と思うのです。

自らが育てた鶏を、自らが食すために、自らの手でしめる。

自らは手を汚すこともなく、本来あったはずの生命に向きあうこともなく、
ただ目の前のフライドチキンを当然のように食べる。

本当に残酷なのはどちらなんだろう?と考えるようになったのです。

農家も、畜産農家も、漁師も、
昔からあまり人気のある職業ではありません。
古くから定番の「嫌われ仕事」と言えるでしょう。

私たちは、そういう「嫌われ仕事」で頑張っている人たちのおかげで、
美味しい料理を食べられ、こうして生きていけるのです。

私たちの知らないどこかで、
私たちの知らない誰かが、
私たちの知らない生命を育み、
そしてその生命を奪い、食材として私たちに届けてくれる。

どこかで誰かが、
私たちの代わりに「嫌われ仕事」を受け持ってくれている。
そのことを忘れてはいけないと思うのです。